「げっ……」

振り返ると、そこに頬が引き攣ったような笑みを貼り付けた奴が車椅子を押されてやってきた。思わず口に出してしまった言葉に慌てて口を押さえたが、安心した方が良いと思う。看護婦さんはきっとお前の本性を薄々感じ取ってるだろうし。

「あら、河野くん。今日はどうしたの? 今日はまだいつもの方は見えていないでしょ?」

「ども。ちょっと風に当たりたかったんで、木村さんにお願いしちゃいました」

「あら、そう」

人の良さそうな笑みを携えて、年配の看護婦さんは車椅子を押してくる。当然そこに乗っている不機嫌そうな顔も近づいてくる訳で、心なしか頬も膨らんでいるような気がした。

入院から早一月が過ぎた。初めは色々と不便なこともあったけど、最近ようやくこの不便な体にも慣れ始めて、不自由なりの動かし方というか、コツみたいなものを掴んできたような気がする。

最近は一人で車椅子に乗り移ることも出来るようになったし、その操作も手馴れている。勿論一人でベッドに戻れないからそんなことはしないけれど、回復も順調に進んでいるらしく、このまましばらく経てば松葉杖にご厄介になりながらも退院することが出来るようだ。初めは二月の時間が必要だといわれていたけど、このままなら一ヶ月半に縮むことも出来るかもしれない。

当然、それが実現しても両足を負傷している以上は手助けが必要になってくるんだけど。それでも退院できればようやく普段の世界に帰還できる。

何だか長期間入院しているとこれだけ退屈していても病院に愛着が湧いてくる。おかげで看護婦さんや医者との面識が増えたし、よく会う人とは普通に会話できる仲にまでなってしまった。

「それじゃあ郁乃ちゃん。そろそろ戻るから。いつも通り時間になったら迎えに来るわね」

「はい。ありがとうございます」

郁乃の気の無い返事も気にせず、仲良くするのよ、なんてお節介な言葉を投げかけて、看護婦さんは院内へと消えていった。

後に残されたのは俺と郁乃。こちらを振り向かない郁乃は意図せずに間近に止められてしまった車椅子を動かそうと奮闘している。中々動かないのでふと見てみれば、車椅子の車輪が丁度地面の溝に嵌るような形になっていた。非力な郁乃では動かすのにも一苦労らしい。

孤軍奮闘している郁乃を眺めていると、何だか笑いたくなってしまう。思わず口を塞いだけれど、押し殺した笑い声が隙間から漏れてしまう。

きっ、と睨みつけられても、顔を真っ赤にしている状態では迫力も何もあったものじゃない。とうとう堪え切れずに笑い出してしまった。

なんかこう、小動物みたいだ。ハムスターが無理して届かない段差を上ろうとしているような、端から見ていて和んでしまいそうな、そんな感じ。

「そこ、笑うなっ!」

ぶんぶんと腕を振り回す。近くに居るので振り回した拳が服を掠めた。慌てて車椅子を動かすと、ようやく納得したようでこちらを睨みながら一言。

「……それ以上近づいたら、殴るから」

「いや、危ないから。入院期間が長引く」

「うっ……それは困るわね」

心底嫌そうな表情で呟く。

この屋上で郁乃と会話をするのは何度目か。二度目の邂逅以降、郁乃も観念したように屋上に顔を出すようになった。初めは無視するように遠くを眺めていたけど、結局話しかけているうちに一言二言返事を返すようになって、今ではこうしてきちんと会話が出来るようになった。

そうはいっても嫌味な言葉は相変わらず。ただ最近分かってきたのは、普段俺以外と話すときはぶっきらぼうながらも普通に会話できるということだ。

それは良いことなのか悪いことなのかは分からないけど、少なくともこうして馬鹿みたいなことで言い合いができるのは結構貴重なことだと思う。だから何だかんだいって俺はこの時間が結構気に入っていたりするのだが。

「……あんた、遂に犯罪者の域に入ってきたのね。人を待ち伏せするなんて」

「おい。言っただろ、ただ外の空気が吸いたくなっただけだって」

「ふん、どうだか」

「お前だってわざわざ毎回同じ時間に現れる必要はないだろ?」

「そんなのあたしの勝手。指図される覚えは無い」

そんなことを言ってはいるが、郁乃の言葉は案外的を射ている。別に変質者というわけじゃないけど。俺がもしかしたら郁乃が居るかもしれないと思わなかったわけじゃないし、もしかしたら心のどこかで期待していたのかもしれない。

何せこうして普通に、といって良いのかは疑問だけど、会話が出来る女の子は珍しい。元々そんな間柄だったのはタマ姉やこのみ位のもので、事件以降はその関係だって皆無に等しい。

だから、郁乃との会話を楽しみにしている自分がいることは否定できない。

郁乃が毎回この時間に屋上に来る理由も薄々分かる。

体が弱い郁乃には、朝や夕方のように僅かな気温の低下でも厳しいんじゃないだろうか。大丈夫なのかもしれないけれど、どちらかといえば無理は体に悪いんだから、自然と昼の休憩過ぎの時間が丁度良いんだろう。

その前後だと看護婦さん達も診療時間の忙しい時間帯だ。もしかしたらそんな心遣いもあるのかもしれないし。

尤も本当のところは郁乃が口に出さない限り分からないんだけど。

「子供か」

「何がよ」

「俺には指図するくせに自分は勝手でいいのか?」

「―――うるさいうるさい。黙らないと殴るからっ」

「ほら、子供」

郁乃がわなわなと拳を震わせて頬を紅潮させる。つっかかってくるかと思ったけど、何とか平静を取り戻した郁乃は嘲笑うように鼻で笑う。

「ふん。あんただって挑発の仕方が子供でしょ」

「バレたか」

「そんなのお見通しよ」

くだらないことで自慢げに胸を張る。

「それより、さっさと退院しろ。学校で落第するわよ」

「ご心配どうも。元々大した成績じゃないから大丈夫だ」

「……それ、自慢にならない」

郁乃の言うとおりだ。こうしてふざけているけれど、実際に勉強で一ヶ月以上の差が開いているのは大きい。たとえ教室で寝ていたとしても、睡眠学習しているのと何もしていないのでは差が出てしまう。

もしかしたら一学期の試験は雄二に負けてしまうかもしれない。……それだけはいやだ。ここ最近雄二に負けていないだけに、連勝記録を途切れさす訳には行かない。

雄二のことだから勝ち目を見ればヤックおごりくらいは賭けてくるかもしれない。それはチャンピオンとして断れない申し込みだし、今回はきっとこのみとタマ姉にも金が出て行ってしまうに違いない。……本格的に自学しないとまずいかも。

学校、か。

離れてみて分かるのは、何だかんだで学校に行くのが好きだった自分がいることだ。

勉強は、まあ嫌いだけどさ。友達とかと話したりくだらないことをするのって、案外学生だけの特権なんだって実感する。

「―――そういえばさ。郁乃は学校、どうしてるんだ?」

ピクリ、と体を震わせた。

「……別に。あんたに関係ないでしょ」

普段よりも冷たい声。それは呟くというよりも履き捨てるような、そんな言葉だった。

言ってしまってから気がついた。郁乃は俺みたいに怪我で入院してる訳じゃない。詳しいことは何にも知らないけれど、病気かなにかで入院しているに違いないのだ。

これだけ長期間入院してるという事は、学校に行った回数も少ないのかもしれない。それゆえに何か悪い思い出も持っているかもしれない。少し考えれば分かるようなことを軽はずみに口にした自分を呪う。

そんな俺の沈み様に気がついたのか、郁乃が慌てて言葉を紡ぐ。

「べ、別に嫌な思い出があるわけじゃないから。ただ……」

「……ただ?」

「―――学校、高校に入ってから行ってないから」

別に聞かれたくないことに触れたわけじゃないようで安心した。そうか、入学した学校に行ってないのか。それは確かに、不安かもしれない。まだ見たことも無いクラスメイトは、きっと自分のいないところで輪を形成しているに違いない。

もしも退院して、自分がその輪に入れなかったら? それは、考えれば恐ろしいことなのかもしれない。

……ん? 高校?

「……って、郁乃、お前高校生なのか?」

「悪かったわね、育ってなくて」

「ちなみに聞くけど。……何年生?」

「一年生よ。今年入学。まあ、このまま入院してたら単位が足らなくてはやくも留年かもしれないけど」

それを聞いて安心した。もし上級生だったら、それはそれで驚きだが。

「ふーん。それって、あの学校か?」

「どれを指してるのか分かんないけど、丘の上に建ってるやつ」

やっぱりというか何と言うか。このあたりに住んでいる人間にはあんまり選択肢が無いので予想はしていたが、どうやら郁乃は同じ学校の生徒だ。一年下の後輩という事になる。

「そうかそうか」

「……何にやにや笑ってるのよ。気持ち悪い」

「別に。ああそうだ郁乃」

「……」

「俺、先輩」

「…………

「ほら、呼んでみな」

「うるさい馬鹿」

ふん、とそっぽを向いてしまった。別に俺も真面目にそんなことを言ったわけじゃない。ただなんとなく、郁乃に先輩と呼ばせてみよう何ていう、しょうもない思いつきに突き動かされただけで。

どうやら機嫌を損ねてしまったらしく、口を開こうとしない。

こんな時に話しかけてもどうせ大した返事なんて返ってくるはずもない。空を見上げれば中天に達していた太陽は頂点を過ぎて心なしか低い位置に浮かんでいる。呆れる位蒼い空。きっとあの学校に居る生徒の誰かしらが、同じ空を見上げて変わらない日常に溜息をついているに違いない。

なんとなくだけど自信を持って断言できる。なぜって、それは昔の俺がやっていたことだから。

毎日に不満があるわけじゃない。それでも何かが違う、ちょっとした変化が生じた毎日が訪れないかと、何の気なしに窓際の席から空を見上げていたあの頃。

でも、喩えそれが実現したとしても、それが最良とは限らない。

だってそうだろ? それってそんな疑問が沸き起こるほどに平和な日常を送っているって証拠じゃないか。

今、この体になってみてはじめて思うのは、そんな日常こそが一度失ってしまうと得がたいもので、一度壊れてしまったものはそう簡単にもとの形に戻らない、ということだけだ。

そのことを実感しているから、余計に溜息がこぼれてしまう。その貴重な時間が、何もすることが出来ないまま流れていっていると自覚したから。

そんな現実を前に、俺は、あまりに無力だった。

それはきっと、郁乃も同じなのだろう。

俺は郁乃じゃないからわからないけど、間違いなく俺なら一度は思うに違いない。もし、体が健康だったなら、と。

望んでも居ないのに限られた時間の使い方しか出来ない。人生って、案外残酷なんだな。

気がつかなければそれがどんなに大切なものかが分からず、気がつくのはそれを失ったときだけ。その時にはすでに、選べる選択肢なんて限られているんだ。

……そう考えると、俺と郁乃は似たもの同士なのかもしれない。

こいつが人を見下したような態度を取るのは、選択肢を持っていることに気がついていない人間が回りに多すぎることが原因なのかもな。自分だったらこうできるのに、それをやらない相手が居ることは許せないことだろう。

―――尤も。こんなことは全て俺の想像でしかないけれど。

「あんたさ」

「え?」

不意に、郁乃が口を開いた。視線は正面に向けたままだが、その焦点は定まっていない。まるで目の前に無いものを見ているように。

「あの学校、書庫ってところがあるか、知らない?」

「……書庫?」

図書室のことか? それなら普通、どの学校にもあると思うけど。だからきっと郁乃が言っているものと俺が思っている場所は違うものなんだろう。書庫……。駄目だ、分からない。そもそも知らないのだから、幾ら考えたところで思い出すはずも無い。

部活をやっていなかったとはいっても、自分の学校の施設くらいは分かっているつもりだったんだけど。

「……もういいわ」

低い声で郁乃が呟いた。それは失望とは違う何かを含んだ重み。なんだか引っかかるけれど、それが頭の片隅から引っ張り出せない。出来ることなら協力したいけど。

「ごめん」

「……別に、いいっていったでしょ」

そしてまた、沈黙。

初めからそれほど仲が良いわけじゃないし、今も積極的に話しをするほど親密な関係ではない。そう、例えば同じバス停に居合わせたような、そんな仲だ。もしどちらかが屋上を訪れなければ、きっとそのうち自然と希薄になって、消え去ってしまいそうな薄い繋がり。

それでもその繋がりを壊したくないと、心の片隅で考えている自分が居る。

ふと腕時計を眺めてみれば、短針は二時を指そうとしている。そろそろ普段なら春夏さんが来る頃だ。迎えの看護婦さんはまだ来ていないけど、エレベーターがついているこの場所からなら自分で押して病室まで戻れる。段差は全て車椅子にも通れるように作られているから、病室に入る前に看護婦さんを捕まえれば問題なくベッドに戻れる。

「それじゃあな、郁乃」

「…………」

返事が無い。何時もの様に返してくれるかと思っていたので拍子抜けしたが、その場に留まっても居られない。俺は車椅子の車輪を押し始めた。

「――――――」

「え? 何か言ったか?」

「う、うるさい馬鹿」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベッドに無気力に横たわっていると、ドアをノックする音が二度響いた。

ちらりと視線を転じると、見慣れた位置に置かれた時計の長針が五時を指しているのが目に入った。慌てて体を起こして松葉杖に手を伸ばす。

普段ならば考えもせずにベッドをカーテンで覆っている時間だ。タマ姉がここに来ることは日課であり、約束を交わしたわけでもないのに遅れたら謝罪をする、そんなタマ姉の声を毎日聞いている。

それが今日に限って、日課である面会さえも失念していた。

別段なにかを深く思案していたわけでもなく、ただ本当にぼうっとして窓の外を眺めていたのだ。時間の流れの遅さに辟易する毎日を過ごしているのに、こんな時に限って時は無常に流れ去ったらしい。

停滞した時間の中に過ごしていた世界がノックの音を皮切りに急速に現実に追いついていく。

カラン、と乾いた音が室内に響いた。

あまりに慌てていたため、松葉杖を取り落としてしまった。動けるようになったとはいえ、健常な体とは程遠い。ベッドから立ち上がってカーテンを閉めるという行為に要する時間は、残された時間と比較してあまりに短い。

必死になって手を伸ばし、床に横たわる杖を拾おうとするが、指先が掠める度に手元から離れていってしまう。

「―――ごめんなさいタカ坊、今日も少し遅れて……」

時間の猶予は、あまりに短かった。いつもなら心の準備を整えるためにわずかな時間を置いて入室してくるタマ姉だったが、さすがに中の様子を把握できるわけもなく、動転していた俺はタマ姉にストップを掛けることさえできなかった。

入り口で固まってしまったタマ姉と、意図せずに視線が交錯する。

開かれた扉の外からはいつもの様に部屋の前を横切る看護士さんや見舞客の姿。革靴が地面を叩く音や台車が通る音などが当然のように飛び込んできた。

だがあたかもそれが壁を隔てた別世界の様子のように、目に写る景色は灰色で、飛び込んでくる雑多な音は単なるノイズと化した。今、確かに目の前に存在するのは、赤みがかった長髪を揺らし、桜色の制服に身を纏ったタマ姉のみ。

毎日同じ空間で過ごしているはずなのに、記憶の中に居たタマ姉と目の前のタマ姉は異なる印象を抱えている。

生気に満ち溢れ、周囲に影響を与えている普段のタマ姉と容姿は相違ないが、全体の雰囲気に覇気がない。なにが違うのかは分からないが、直感的にそう思う。

「……ご、ごめんなさい」

およそ一ヶ月以上の時間を経ての顔合わせだったが、タマ姉はそのまま踵を返して室外へと出て行く。顔を落としているので表情は読めないが、体が小刻みに震えている。さきほどの声も若干震えていた。

まるで、何かにおびえているかのように。

タマ姉の手が病室のドアの取っ手に掛けられた。横にスライドしていく扉の先、スローモーションのようにタマ姉の姿が隠れてしまう。

何か言わないと。

そう、咄嗟に思って口を開く。

「タマ姉!」

僅かに隙間を残して、ドアの動きが停止する。

呼び止める自分の声の大きさに驚いた。ここが病院だとか、そんなことを考えていたわけではない。だから大声を出したことを後悔するわけではないが、咄嗟にでた声がまるで必死に助けを求めるように、搾り出すものだったことに気がついたのだ。

入院してからそれほど大きな声を出す機会がなく、安静にすることが多かったからか、喉が痛かった。痛みを誤魔化そうと唾液を飲み込もうとするが、いつのまにか口の中はカラカラに乾燥している。

呼び止められたタマ姉はそのまま待っているのだろう、ドアは完全に閉ざされることなく、曇りガラスの向こうには人影が写る。

どうしようか、と必死で考えをめぐらせる。

何か用事があって呼び止めたわけではない。単にタマ姉の姿をみて、呼び止めなければいけないと咄嗟に思ってとった行動なのだから。

俺の放った一言が病室の時間を止めている。そしてそれは病室のドアの隙間を通り、タマ姉にも届いているはずだ。この硬直を解くことができるのは、俺の紡ぐ言葉だけだ。

「……入って、いいよ」

今度は自分でも驚くくらいに小さくつぶやいた。空気中に溶けて消え去りそうな、そんな響きはしかし、タマ姉に届いたのか、ゆっくりと病室の扉が開かれていく。

まっすぐ俺を見つめて入ってきたタマ姉。久しぶり正面から見たその頬は、少しばかり痩せていた。

 

 

 

 

 


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